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第七十代横綱 前谷肉の恋愛相談室

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「嫁」も所有から利用する時代へ

ITの世界ではクラウド化の進展とともにシステムを「所有」するものから「利用」するものへと考え方が変わりつつある。

我々の日常生活でも、家や車、時にはブランドの小物まで比較的値が張るものを「所有」するのではなく必要に応じて「利用」あるいは「借りる」という考えが浸透しつつある。

まとまった額のお金を、家や車などに長期に固定させるのではなく、費用として小出しすることで家計にゆとりを持たせ、生活にリスク耐性をもたせるとともに必要に応じてより有効に活用しようということだ。

そこには、例えば家や車を手に入れてこそ一人前という固定的な価値の尺度から、お金をかけるべき分野など自分の価値観に従えばいいという、多様な価値の尺度を受け入れる土壌の広がりを見出すこともできる。

そこで、 俺は考えたってわけ。

男にとって一生の高い買い物は「家」と「嫁」。

「家」は一生涯持たずに借りるという考えがあるのだったら、そのうち「嫁」も「借りる」という考え方が現れるであろう、と。

そしたら、フランスで以下のようなサービスが話題沸騰とのことだ。

彼女はレンタルする時代! 仏で始まった「レンタル彼女サービス」に問い合わせ殺到

やはり時代はそういう方向に進みだしているのだろうか?

とするならば、数年後にはこのようなサービスが始まっているだろう。

嫁はレンタルする時代! 日本で始まった「レンタル嫁サービス」に問い合わせ殺到

たとえば、仮に「嫁」という機能を古典的な定義に従って、炊事、洗濯、掃除といった機能の束、いわゆる内助の功で定義できるとしてみよう。

しかしそれらの機能やサービスなど、いまや何でも簡単に手に入ってしまう時代だ。

我々はコンビニのおかげで日々飢えることをもはや知らない。

洗濯など洗濯機に放り込んでおくだけだし、クリーニングだってある。

最近では家まで洗濯物取りに来て、クリーニング後また配達してくれるサービスもある。

掃除だって、ルンバが勝手にやってくれるわけだし、ダスキンに頼めばプロのおばはんがやってきて速攻部屋をきれいにしくれる。

いまや、電話一本、メール一通で、いかなるものもデリバリーしてくれる時代だ。

つまり、我々男達は、一生涯の賃金ほとんどに匹敵する高い金を払ってまで「嫁」を所有する必要はもはやない。

必要なときに「嫁」を利用し、「嫁」を借りればいいということなのだ。

「嫁」という機能の束に特別な意味はなくなり、それこそ宅配可能な個別の機能に溶解しつつある。

さらに言えば、こうした時代のうつりかわりと共に、「結婚」という制度において、古典的な「嫁」の概念はもはや必要とされなくなりつつある。

料理など、できなくてもいい。コンビニの弁当のほうが美味いから。
掃除など、できなくてもいい。ルンバがいるから。
洗濯など、できなくてもいい。洗濯機があるから。

つまり、「結婚」において古典的な「嫁」に対するニーズなど、もはや存在しないということだ。

そして、そのような変化に「結婚」という制度や概念が追いついているだろうか?

時代に合わせて概念や制度を変容させなければならないのに、我々の意識も価値観も変化に対応できていないのではないだろうか?

そのようなわけで次回は、価値観の変化と「結婚」をテーマにとりあげて、深く省察してみようじゃないか。

# by maeyaniku | 2011-02-15 22:41

幸福とは何か

横山光輝三国志の37巻だったと思うんだけど、温州蜜柑とやらが献上されて曹操が大喜びする場面があった。

妖術使いの左慈というジジイが登場したときのエピソードで、結局、曹操が蜜柑の皮を剥いたら中身が空っぽというオチだったと記憶している。

はじめて横山光輝三国志を読んだ当時、中学生の自分は蜜柑を献上された曹操の喜びようをみて、この温州蜜柑というのはどれくらい美味いのだろうと思いをはせたものだった。

しかし、大人になってよく考えてみたらたかが蜜柑じゃないか。

2000年まえの蜜柑より、今の蜜柑のほうが絶対美味いに決まってる。
下手したら、セブンイレブンの濃い味みかんバーのほうがおいしいんとちゃいまっか?

また、劉備が故郷の母にお茶を買って帰るというエピソード。

たかがお茶ごときで一騒動起こして命まで奪われそうになってるんだから、中学生の自分は当時のお茶は一体どれくらいうまいのだろうと思いを馳せたものだった。

しかし、考えてみればたかがお茶じゃないか。

2000年まえのお茶より、今の烏龍茶のほうが絶対美味いに決まってる。
下手したら、サントリーの烏龍茶2㍑のほうがおいしいんとちゃいまっか?

もし俺が、タイムマシンで2000年まえの中国に行くことができるなら、曹操には300円のハーゲンダッツを献上し、劉備の母には同じく300円くらいでスターバックスのコーヒーでも飲ませてあげるだろう。

それだけで少なくとも、大臣か地方の長官くらいにはなれたであろう。

とにかく俺は、このような小市民の俺でさえが、日常的にハーゲンダッツのアイスを食い、スターバックスのコーヒーを飲むことがこれといった贅沢ではないという事実に、すくなからぬ驚きと感動を覚えずにはいられない。

そしておそらく、当時の皇帝が食ってた飯より、今コンビニに行って500円くらい払って買う弁当のほうが確実に美味いであろうことは間違いないだろう。

そのように考えてまったくもって俺は、蜜柑で大喜びし、お茶で命を奪われるような時代に生まれなくてよかったと思うのだ。

しかし一方で俺は考える。

もし、今、目の前に突如神様が現れて、今すぐ生まれ変わって人生やり直すとする、そしてそれが曹操か、俺自身のどちらかに生まれ変わらばならぬ、と言われたら、俺は一体どちらの人生を選択するだろう?

まあ、俺は間違いなく、もう一度俺自身の人生を生き直すだろう。

だって、いくら曹操に生まれ変われるとしても、蜜柑で大喜びしお茶で命を奪われるような時代に生きるくらいなら、日常的にハーゲンダッツやスターバックスを食することが出来る現代のサラリーマンのほうが絶対に幸福なのだと思えるから。

しかし、世の中には同じような状況で曹操に生まれ変わることを選択する人もいるだろうことは想像に難くない。

つまり、物質的に非常に恵まれた現代で小市民としての人生を生きるよりも、極めて不便を強いられながらも古代の皇帝として生きるほうが幸せだと考える人がいるということだ。

こう考えると事態は複雑だ。

幸福の概念や尺度など、そもそも人それぞれで一概に断定できないことは確実だが、少なくとも次のようには言えるだろう。

幸福とは、絶対的な物質的豊かさでもたらされるものではない、と。

我々は、確実に、曹操の生きた時代に比べて、そして、曹操自身よりも、物質的な豊かさという点で恵まれた生活を送っている。

日々おいしいものを食べることができ、エアコンが完備された家に住み、トイレは水洗だ。

それでも、もし我々が日々の生活で満たされない思いをし、幸福を感じることができないとするならば、まさに、幸福とは絶対基準における物質的な豊かさでもたらされるものではないということだ。

そこで、幸福とは、絶対的な物質的豊かさでもたらされるものではないとしよう。

とすると以下のように言えるのではないか?

幸福 = 絶対 AND 物質

が否定されるのだから、

幸福 = NOT ( 絶対 AND 物質)

となり

幸福 = NOT 絶対 OR NOT 物質

であるからして

幸福 = 相対 OR 精神

つまり、結論として、次のように言うことが可能である。

幸福とは、相対的豊かさ、あるいは、非物質的=精神的(※註)な豊かさでもたらされるものである。

ここで、幸福とは2つの観点から帰結されることになる。

1.相対的な豊かさ

つまりは、誰かと比較して自分は恵まれているかいないかが幸福の基準になる、というわけだ。いくら絶対基準で物質的に曹操より恵まれているとしても、同時代で物質的に自分より豊かな人はたくさんいる、そのような人たちに比べたら、必ずしも自分は豊かではないし、幸福ではない。

だから、現代において相対的基準で恵まれていない、幸福ではない自分よりも、古代において相対的に恵まれている、幸福である曹操に生まれ変わろう、と考えるわけだ。

2.精神的な豊かさ

現代のサラリーマンよりも、古代の皇帝のほうが精神的に充実し、精神的に豊かで、つまりは幸せだろうというわけだ。精神的な豊かさが何かと言うのは、そう簡単に定義できることではない。量的にはかることができるのかも不明ではある。ただ、現代の小市民たる我々に無く、古代の曹操にあるものを考えれば、つぎのようなものがあげられるかもしれない。

曹操はおそらく我々現代の小市民より多くの女とやりまくったであろう。
曹操はおそらく我々現代の小市民より多くの人々から尊敬を勝ち得たであろう。
曹操はおそらく我々現代の小市民より多くの才能を持ちそれを発揮したであろう。
曹操はおそらく我々現代の小市民より多くの目標を達成し、自己実現を果たしたであろう。

以上を要約すると以下のようになる。

現代の日本に生きる人々のほとんどは、おそらく絶対的な物質の豊かさという観点で言えば、曹操などはるかに凌駕するくらい豊かだろう。

しかし、その一方で古代の皇帝と比較して、自分が幸福だと感じる人はどのくらいいるだろうか?

このように考えると、幸福という概念が、絶対基準の物質的豊かさで単純に定義できる問題ではないことはたしかだ。(もしこのように簡単に結論がでる問題であれば、世の幸福論など2600年まえのギリシャの時代にかたはついているだろう)

では、絶対的かつ物質的な豊かさの否定の先に、どのような結論が導かれるのか?

ここでは議論を単純に進め、「相対的なもの」、「精神的なもの」と結論したが、これが必ずしも答えだと言い切るつもりはない。

人が人生を生きることを肯定するその理由はつまるところ、自分が幸福であると言える点にあるのでだろうし、幸福が何に由来するのか理解することができれば、人生の目標や目的、自分自身の進むべき道というものが眼前に明確に拓けるであろう。

だから俺は、自分自身にとって、また人類にとって幸福とは何なのか、今後も考察を続けていくことになるであろう。

※註 当然のことながら、非物質的=精神的という図式は単純すぎる。ここではあくまで話題を明快に進行するための便宜だと割り切っていただきたい。

参考:
野菜ソムリエが選ぶ温州みかん
ハーゲンダッツ ミニカップ12個セット
スターバックス レギュラーコーヒー ハウスブレンド 6個
(お徳用ボックス) [2CS] サントリー 烏龍茶 (2L×6本)×2箱

# by maeyaniku | 2011-02-07 01:38

愛という名のバブル

俺達1970年代後半に生まれた世代は、日本の高度成長の後期にその幼少期をすごし、物心がつこうかというときに例のバブルが発生し、子供心におぼろげながらも、これから大人になるということはものすごく楽しい世界に足を踏み入れることなのだと思い描いていた。

しかし、物心がついたころにバブルは弾け、厳しく、しかし無意味な受験戦争を戦い、大学を卒業する頃には日本経済は金融危機に襲われ、気がつけば俺達の世代は「ロストジェネレーション」なる救いようのない名前でひとくくりにされていた。

ときどき、子供のころの淡い記憶を思い返すように、俺は考える。

80年代の、日本のバブルとはなんだったのか?
そして、そもそも、世界のあちこちで、膨らんでは弾けるバブルの正体は、一体何なのか?
日常のエアポケットのような、ぽっかり空いた時間に、ふと考えることがある。

そこで、ある金融の専門家に質問を投げかけた。

「 金融の専門家であるXXXさんに質問なのですが、結局バブルとはなんなのでしょうか?たとえば、日本の80年代のバブルは、お金がジャブジャブ余って、みなお金を使っても使っても、使い切れなかったといいます。でも、お金が余っているとするならば、インフレになって結局実質的な物価は変化もしないし消費者の購買行動にも変化が出ないのではないかとわたしは思うのです。すなわち日本の80年代のような消費行動が発生するためには、物価の上昇を凌駕する貨幣の増大=信用の創造がなければならないわけです。つまり、物価の上昇期待があるから人々は土地などに投資をするわけですが、そのためには資金が必要で、物価の上昇期待があるから銀行は投資家にお金をお金を貸す、その物価の上昇期待を上回るお金の貸し借りが発生してしまい、その信用が実体を上回り実体のない信用となったとき、それをバブルと呼ぶのでしょうか?そしてバブルの崩壊とは、その実体のない信用が一気に収束し、急激に貨幣が縮小する現象をいうのでしょうか?経済とは、本当に難しいです。経済とは、何なのでしょうか?」

俺には、経済学など聞きかじった程度の知識しかない。

それでも、そのような前提であえて俺なりにバブルと言う現象を整理するならば、次のようにまとめられると思う。

経済の実体を上回る信用が発生し、そのために実体経済以上の貨幣が流通する。
貨幣があまるから、物価が上昇するし、恒常的な物価上昇期待が発生する。
そのために、さらなる信用が発生し、実体を乖離した信用創造のループが繰り返される。
やがて信用と実体経済の乖離に誰もが疑いを持ったとき、バブルは崩壊する。
信用は急激に収縮し、マネーが引き上げられ、経済は恐慌に陥る。

このように考えたとき、俺はあることに気づくのだ。

ああ、愛もまた、バブルの一種なのではないだろうか、と。

つまるところ、我々が日々向き合わざるを得ない愛もまた、無限の信用創造の果てに肥大化した幻想に過ぎないのではないだろうか?

人というのは、自分一人でその存在を確立できるわけではない。

幼少期は母や父に認められ、社会に出たら、社会的存在として、社会という鏡に自分自身を映しこむことで己という存在を確立することができるのだ。

愛だとか、恋だとかいうものも同じである。

人は、理想化した恋人の中に自分の姿を映しこみ、恋人を愛することによって自分自身をも認め、愛しているのだ。

そして、それは、自分自身のみならず、恋人もまた、自分を通して恋人自身を認め、愛するということを繰り返している。

つまり、愛し合うもの二人は、二人の閉ざされた世界において、互いを鏡のように映しあい、その合わせ鏡のうちに信用を、すなわち愛という幻想を、無限に増幅させていく。

その信用の増幅が無限に繰り返された末に、その信用、すなわち愛は、二人の実体から大きくかけ離れた幻想の領域に達してしまう。

何らかのトリガーをきっかけとして、どちらかが、その愛に疑念を抱いたとしよう。

そして、無限に膨れ上がった信用=幻想としての愛の向こうに、恋人のみすぼらしい実体を垣間見てしまったとしよう。

信用は、すなわち愛は、一気に収縮するだろう。

それは、愛という名のバブルが、すみやかに崩壊する瞬間であり、破局の瞬間である。

愛は、信じれば信じるほど、己と恋人の実像を大きくかけ離れて、肥大化していく。

愛は、もはや自分自身の実力では支えきれないほど重い存在に膨らんでいく。

時として人は、そこで、手に負えなくなり始めた愛を、すこしずつ自身と恋人の身の丈のあったレベルに安全に着陸させる努力を始め、最終的に自身と恋人の極めて実体に近いレベルで愛を「愛」という目に見える形にパッケージ化することで決着をつける。

しかし、一方で、愛を実体に合わせてセーフ・ランディングさせることを拒否し、もはや己の身で支えることができない極限のレベルまで肥大させたあげく、無限の高度から90度に近い角度で愛を急降下させてしまう恋人たちもいる。

それこそが、真の意味でのバブルの崩壊であり、もはや破局というありふれた言葉で片付けることのできない、悲劇と惨劇が、その先に待ち受けているだろう。

では、我々は、愛を信じることができないのだろうか?あるいは、愛を育てることをいつの日かあきらめ、愛を退屈な「愛」という形で飼いならすことを覚えなければならないのだろうか?

ただ俺は、ある確信をもってこのように言わざるを得ない。

人としてこの世に生を受けて、信じることができるものが二つある。

あるいは、人としてこの世に生を受けて、信じるに足るものは二つしかない。

そのひとつは貨幣であり、もう一方こそが愛である。

しかしながら、貨幣も愛も、実のところ目に見えない「信用」に基づく、一切の実体を持たない、はかない存在に過ぎない。

いつ陽炎のように、消え去ってしまうかも分からない。

それでも、目に見えなくても、手にとって確かめることができなくても、いつか消えてなくなってしまうと分かっていても、我々は貨幣と愛を信じることなしには、生きていけない。

もし人類に悲劇というものが存在するのであればそれは、つまるところ愛と貨幣以外に信じるに値するものが存在しない一方で、その愛と貨幣こそ信用という幻想の上に立脚する信じるに値するかも分からない概念であるというその板ばさみにおいて、なお信用を支えながら生存し続けなければならない、その事実にあるのだと思う。

参考:
鏡像段階論:Wikipedia
現実界・象徴界・想像界:Wikipedia
シーシュポスの神話 (新潮文庫) アルベール・カミュ
死の棘 (新潮文庫) 島尾敏男
エクスタシー  村上龍

# by maeyaniku | 2011-02-06 02:02

街からコンビニが消える日

時の移り変わりとともに変わらないものもあれば、どんどんその姿を変化させていくものがあります。

街の風景など、時の流れとともにその外観を変化させていく典型です。

毎日見慣れた風景だと思っても、1~2年も経って気づいてみたら街並みが大きく変わっていたなんてことは良くありますでしょ?

我々の生活に根ざす街並みというのは、ある意味時代を映す鏡ということがいえるでしょうし、そのような視点において、時代の流れをよんで、我々の住む街の風景がこの先どのように変わっていくか、ちょいと思いを馳せてみましょん。

さて、昨年半ばあたりから、わたくしのまわりでネットスーパーを使い始める人が急激に増えてきました。

たしかに、「ネットスーパー」で検索すると、既存の大手スーパーから、専門の業者まで、かなりの数の業者が検索結果として表示されます。

また、ことしからマクドナルドが本格的に宅配サービスを開始するとのことですし、アマゾンなんてのも、日用品を充実させ始めています。

近頃、ネットを通じた消費者の最近の購買行動がすこしずつ変わり始めているなと感じるのは、このように生鮮品や日用品をネットで購入し、直接自宅まで宅配を依頼する購買行動が広がりつつある点です。

もともと日本においては、ヤフーオークション、楽天、価格.comなどインターネットショッピングのマーケットは存在しましたし、アマゾンが普及し始めてからは本をネットで購入することも当たり前のことになってしまいましたが、ネットショップの黎明期は、どちらかというと日用品より若干高額な商品、マーケティングの分類で言えば、買回品を販売するマーケットが中心だったのではないでしょうか?

それがここにきて、ようやく生鮮品や日用品すなわち、最寄品を中心としたインターネットショッピングが普及し始めていることに非常に興味を覚えるのです。

一般的に商品は、消費者の購買行動によって以下の3つの分類に分けられます。

[最寄品]
いわゆる日用品、コモディティ商品で購買行動がルーティン化している。品質よりも値段が購買の決定要因となる。
例:食品、洗剤、トイレットペーパー、文房具など

[買回品]
比較的高額な商品。購買に当たって、複数の商品の品質や価格が比較検討される。
例:服飾品、宝石、家電製品、本、保険など

[専門品]
購買が生涯で1~2回発生する程度の、超高額商品。購買にあたって、品質や価格が慎重に吟味される。
例:家、車、墓石など

これまでのインターネットショッピングの主要な商品は、企業や業者にとって一回の取引である程度のマージンを確保できる、いわゆる買回品が中心だったのではないかと思います。

いわゆる最寄品=コモディティ商品は利ざやが少ないうえにほぼ毎日の頻度で小口の宅配の必要が生じるため、宅配のエリア内である程度顧客が密集していないと、宅配のコスト自体が回収できなかったのだと想定されます。

また、消費者視点においては、生鮮食品など、鮮度や安全性を考慮に入れると、消費者の側でそれら商品をインターネットで購買することに未だ抵抗があったとも考えられます。

それがここ最近、風向きが変わり始めつつあると、感じています。

本質的には、インターネットショッピングにおいては、買回品よりも、最寄品のほうがその購買行動と相性が良いのです。

というのも、購買行動において買回品は実際の商品を手にとって比較検討することが求められる商品である一方、いわゆる最寄品は購買行動が反射的であり、値段とブランドのみが購買決定要因となることがほとんどであり、実際は商品を手にとって見る必要がほとんどないからなのです。

つまり、商品を実際に手にとって比較検討する必要のない最寄品こそがインターネットショッピングに向いていることは明らかなのです。

そのような、インターネットショッピングの本質的な性格、また、企業側が先行投資の意味も含めて大きく動き出し始めている点、インターネットショッピングに対する消費者の抵抗感が薄れ始めている点、この三点において今後ネットを通じた生鮮品、日用品の購買が拡大するでしょうし、ある一定の規模を迎えた段階で一気にティッピング・ポイントを超え、インターネットショッピングの規模自体、最寄品の扱いとともに爆発的に増大するかもしれません。

その傾向は、今後の日本の人口動態や社会の構成も後押しをすると考えられます。

つまり、今後ますます共働き家庭が増加することにより、日用品の買い物などにわざわざ外に出かける時間をかけたくないという家庭が増えるでしょう、高齢化社会の進展に伴って食品等重い荷物を持つことができない、あるいは買い物に出かけることも困難な高齢世帯が増加することも間違いありません。

このような社会構成の傾向とともに、ネットスーパーといった形態は一気に普及するでしょん。

そして、日用品や生鮮品をネットで購入し、宅配で家まで運んでもらうという購買行動が一般的になった時、今我々が住んでいる街の風景が全く違ったものになることも想像されます。

つまり、日用品や生鮮品をインターネットで購入するという購買行動が一般化したとき、それら商品を扱う店舗は街から一斉に姿を消してしまうのです。

あるいは、スーパーもコンビニも、店舗として存続しえたとしても、今とはまったく異なる営業形態に変化してしまっているに違いありません。

そうなると、もはや日用品を買うために出かける必要はないわけですから、人々が街にでかける理由すら、大きく変わっていることも想像されます。

求められる労働の質も変化すると思われます。

今までレジの売り子としての労働は必要なくなり、変わって宅配や運送に労働力が移行するはずです。

運送・配送サービスは潜在的に市場の規模を拡大する伸びしろをもっているのかもしれません。

[参考]
急に売れ始めるにはワケがある マルコム・グラッドウェル
MBAマーケティング グロービス経営大学院
メランコリア 村上龍

# by maeyaniku | 2011-01-30 22:24

「萌え」と 仏像

偶然、以下のような記事を見つけました。

Buddhist monk on figures

英語の記事なのですが、内容を要約すると以下のようなことが書いてありました。
(英語の記事を日本語に直した都合上、表現のたどたどしさはご容赦ください)

「記者は、友人に連れられて、己を『Buddhist bar』と宣伝するバーに行った。

マスターは実際、浄土宗の僧侶である。

『Erotic Monk』と呼ばれる飲み物を飲んだ後、マスターは啓蒙以上にジャズやアイドルについて語ることに興味を覚えた。

記者は、仏像の横に看護婦魔女『小麦ちゃん』のフィギュアがあるのに気づいた。

記者:『このように、仏像の横にフィギュアを並べてしまってOKなのか?』

マスター:『今日のフィギュアは、昨日の仏像である』」


-- 引用:OTAKU2.com

OTAKU2.comは、日本のオタク文化をグローバルに発信し、世界中からアクセスを集めている、その世界では非常に優良かつ権威のあるサイトの一つです。

そのようなサイトとわたくしの「フィギュアと仏像」と題する最近の記事がシンクロし、かつ浄土宗の本職の坊さんが「今日のフィギュアは、昨日の仏像である」と語った事実は、わたくしの認識が必ずしも独りよがりの思いこみではないことを証明してくれるようでもあり、わたくし自身非常に勇気づけられました。

一方で、最近このブログに「仏像のフィギュア」というキーワードで検索してやってくる人がふえてきました。

しかしながら、「仏像のフィギュア」なるものは、わたくしが「フィギュアと仏像」という一連のエントリで伝えたかった理念を裏切る、非常に残念な一物だと言えます。

何度も申し上げますが、わたくしは、「仏像」と「フィギュア」がその本質において同質であると言いたいのです。

わたくしが伝えたかったのは、「仏像」と「フィギュア」に共通する何からの上位概念が存在し、表面的な形が変わったようにみえても、その上位概念を、人々は時間を超えて変わらず愛し続けて来たのだろうと言う、その認識なのです。

(なお、ここで言う「上位概念」という言葉における「上位」とは、物事の序列を表しているのではなく、あくまで事物の抽象化のレベルでの「上位」という意味であることに注意してください)

その点「フィギュアの仏像」、すなわち仏像のフィギュア化という現象は、「仏像」サイドからの「フィギュア」サイドへの歩み寄りであり、追従であり、「仏像」が「フィギュア」に化体することを認めることにおいて、「フィギュア」に対する「仏像」の従属、すなわち、関係性の序列を発生させてしまうという、非常に許し難い現象だといえるのです。

「仏像」も「フィギュア」も、その共通の抽象概念においてどちらかが他方に従属するなどということがあるわけもなく、過去・現在・未来において、常に/すでに、ともに王者として両立しているということを、どうか読者の皆様には忘れないでいて欲しいと思います。

それでは、一体、「仏像」と「フィギュア」の抽象レベルにおける共通概念とはいかなるものなのでしょうか?

抽象的な概念であるだけに、具体的に「何」であるかを言葉で表現するのはむずかしいのですが、現代的に新解釈されている言葉であえて申し上げるとするならば、それは「萌え」と言うことではないかと思うのです。

そもそも、古来において、なぜ仏像が多くの人々の畏怖や憧憬を集めたのでしょうか?

それは決して宗教的な権威に基づくものではないでしょう。

わたくしは、古代の歴史においても、美術史の分野においても、一切の専門的な知識を持っているわけではありません。ただし、偏見や思いこみから自由に、美しいものを素直に美しいと感じる心はもっているという自負があります。

そこから独断で判断するに、それは、金銀に輝き、極彩色に塗られた超現実の姿が、まず素直に人々の心を引いたのではないかと思うのです。

そして、もしかしから、古来の仏像のモデルとなった人物は、いわゆる当時のスーパーモデルとも言える人物だったのではないでしょうか?

(実際、奈良法華寺の国宝である十一面観音像や、璉珹寺阿弥陀如来立像は聖武天皇后である光明皇后がモデルであったと伝えられるようです)

金銀に輝き、極彩色で彩られ、現実離れしたプロポーションの肢体。

宗教的な権威などといった難しい概念よりも、まずは直感に訴えかける「萌え」に当時の人々は憧憬の念を抱き、仏像というものに畏怖の感情を覚えたのではないでしょうか?

あくまで、宗教的な信仰心とは、その直感的な感情に対する後付の結果に過ぎないのだとわたくしは考えます。

そのような意味で、古来の人々が仏像に「萌え」の感情を抱くのと同じように、現代の人々はフィギュアに「萌え」の感情を抱くのです。

一切の偏見を捨て、心を開き、美しいものを美しいと素直に評価することのできる感性を取り戻したとき、現代のフィギュアの完璧とも言える姿態に、我々は過去のひとびとが仏像に対して感じたように、畏怖と憧憬の念を同じく感じることができるのではないでしょうか?

# by maeyaniku | 2011-01-29 01:48

恋のから騒ぎ打ち切りに思う - 進み続けるテレビ局の終末時計

驚いたというべきか、やはりというべきか、恋のから騒ぎ打ち切りが正式に発表されました。

18期メンバーの募集が停止された時点で何らかの予感の兆候はあったのですが、こうして正式に打ち切りが発表されてみると、わたくし自身としては非常にさみしい気持ちにつつまれるのが正直な思いです。

枠が金曜日に移動して1年目ということもありますし、番組の盛り上がりもメンバーの組み合わせ如何による部分が大きいので、メンバーを入れ替えてもう1シーズン様子を観てもよかったのではないかと個人的には感じています。

しかし、番組関係者やスタッフとしては、「体力の限界、気力もなくなり」と、晩節を汚すことなく潔く引退した千代の富士並に、引き際も美しく、という判断なのでしょうか?

番組打ち切りの主な原因としてはやはり視聴率の低迷があげられるようです。

好調時には土曜の夜に10%台後半の視聴率を獲得していたわけですが、昨年はよくて10%台前半、時に10%を切ることもあり、金曜枠に移動した今期にいたっては、枠移動で視聴者の習慣が追いつかなかった影響もあるとはいえ、視聴率が10%に届くことすらまれで、平均して5%前後で推移していたとのことです。

既存のテレビという産業は、視聴率という数字を一つの指標とてその番組を観ている視聴人口を推定し、視聴率が高い番組がより高い広告収入を得るという、広告からの収入に頼るのが現在のビジネスモデルであるわけです。

戦後から高度成長に至る経済の成長期、すなわち需要が供給を常に上回る経済環境においては消費者の嗜好は単純であり、したがって嗜好が一様のマスをターゲットにしたマーケティングが有効に機能していました。

広告主は、視聴率の高い=視聴人口の多い番組に対して広告を出稿すれば商品は売れたし、テレビ局は視聴率を基準に番組の改廃を考えればよいという、非常にシンプルな原理が機能していたのです。

しかし、経済が成熟しモノが溢れる時代、その広がらないパイを奪い合うゼロサムの環境においては、消費者の嗜好も多様化、細分化し、それまでの一様のマスをターゲットとするマーケティングは有効性を失います。

テレビの視聴者は生活に必需なものをほとんどを手に入れてしまっており、自分自身でも何を欲求しているのか分からない。皆が必要なものを手に入れてしまったあとでは、視聴者個々人で欲しいと感じるモノが異なってくる。つまり、視聴率という単純な数字の裏側に実に多様な視聴者のニーズが広がっており、単純に視聴率という指標を基準に広告を打ったとしてもそのニーズを掬いきれなくなっているのが現状なのです。

広告の出稿主もそのことに気づき始めており、テレビ広告というマスをターゲットにした広告の有効性を疑い、もっと直接的にマーケティングターゲットにリーチできる媒体にシフトしつつあるのです。

このように考えると、既存のテレビという産業が、視聴率という画一的な数値をもとにした前時代的な広告収入モデルを維持する限り、その産業の規模拡大どころか、規模を維持していくことすら無理であることは誰の目にも明らかですし、なにより現場の人間自身そのことを肌感覚で一番よく分かっているはずでしょう。

従って、テレビ産業が今後その規模を維持、拡大していくためには大幅な、いや、それこそ抜本的なビジネスモデルの転換が求められてくるのです。

恋のから騒ぎについて話を戻すと、たしかに番組の勢いが全盛期に比べて無くなってしまっていることは間違いない事実だと思います。

(過去記事参考)
恋のから騒ぎ17期生中間評価について
恋のから騒ぎ17期生中間評価について - 補遺

ただし、17年続いた番組の歴史は長く、以前として根強いファンは多い点、また、「恋から」自体が一つのブランドとしてそれなりの価値を確立していることを考えれば、視聴率に頼った顔の見えないマスに対する一様のマーケティングから脱却し、17年かけて築き上げ、いまだ価値の高いマーケティング資産を有効活用した新たな収益モデルを見いだすことは可能だったとわたくしは考えます。

つまり、マスが多様な欲求を持つ複数の層から成り立つことを認識した上で、番組のコンセプトに合う特定の欲求を持つ層を特定し、抽出されたマーケティングセグメントに対して明確にターゲティングすることで、既存の広告モデルの有効性を高めることはできたでしょうし、加えて将来的に広告以外の収入を確保するための戦略立案、ビジネスモデルの転換は、十分に可能だったのではないでしょうか?

そのような意味で、もし視聴率という単純な数字を未だ意味のある数字と誤認して、その数字を基準に番組を終わらせるという意思決定をしたと仮定するならば、それはテレビ局自体が本質的な危機感を抱いていないか、あるいは、危機感を抱いていてももはや新しいビジネスモデルを実行する発想力や実行力を欠いているのか、そのどちらかでしかないと思います。

もし上記仮定が正しいのであれば、恋のから騒ぎを終わらせたからといって、何か新しい機軸で斬新な番組が登場する期待は一切無いわけで、これはただ単に既存のテレビやテレビ産業が衰退していく一つの徴候だと言えるでしょう。

各テレビ局が経費の節減をスローガンに番組の制作費用を切り詰めているようですが、ただ経費を節減するだけでは、その先に待ち受けているのは削減した費用に見合って収入も減少していく縮小均衡のみであり、いずれやってくるであろう破滅がただ単に先送りされるだけです。

上記は、一般的な企業にも当てはまることであり、一産業が成熟、衰退局面にある場合、投下する資本や費用を節減する退却戦略を取ることに加え、一方でビジネスモデルの転換や新しい産業や市場を創出する攻めの戦略がなければ、その企業は遅かれ早かれ死滅の淵に追いやられることになります。

恋のから騒ぎが終焉するという事実、またその周囲の状況から色々推測すると、既存のテレビ産業の衰退と、その産業の危機に瀕しながら抜本的に変われずにいるテレビ局の姿が目に浮かぶようでなりません。

まずは後継にどのような番組が打ち出されるか注目ではありますが、そこに恋のから騒ぎを打ち切るという覚悟に見合うほどの新規性やアイディアを見いだすことが出来なければ、テレビ局自体に変化する覚悟も行動力もアイディアも枯渇していることの表れであり、また一歩、既存のテレビ産業の終焉が近づいたと判断できるのではないでしょうか?

今も、テレビ局の終末時計は今も進み続けています。
そして当事者がよほど覚悟を持たない限り、時計の針が戻ることはないでしょう。

参考:
恋のから騒ぎ 卒業メモリアル'10-'11 17期生
恋のから騒ぎ 卒業メモリアル'09-'10 16期生
恋のから騒ぎ 卒業メモリアル'08-'09 15期生
恋のから騒ぎ 卒業メモリアル'07-'08 14期生
恋のから騒ぎ 卒業メモリアル'06-'07 13期生
恋のから騒ぎ 卒業メモリアル'05-'06 12期生
恋のから騒ぎ 卒業メモリアル'04-'05 11期生
恋のから騒ぎ 卒業メモリアル'03-'04 10期生
恋のから騒ぎ 卒業メモリアル'02-'03 9期生
メランコリア 村上龍

# by maeyaniku | 2011-01-22 14:30

生牡蠣のリスクヘッジ

落合博満は現役時代、当たるといけないので、生魚を一切口にしなかったといいます。

不肖わたくし自身も、体あっての商売ですから、これぞ真実のプロフェッショオナルの仕事人として彼を見習い、普段からできるだけ体調を崩す危険性のある食べ物は口にしないように心がけています。

しかし、牡蠣については、その危険性を理解していても、どうしても食することをやめられません。

特に、冬の極寒の時期に、日本酒や白ワインとともに食する生牡蠣の美味いことといったら、初めて法隆寺で百済観音像を、あるいは興福寺国宝館で旧山田寺仏頭をみるに等しい感動を味わうに似て、いいよ、いいよ、一度や二度の下痢くらいなら我慢しちゃおーよ的な、今まであたったことないからこれからもあたらないよ的な、実に大甘な裁定を下してしまいがちです。

というわけで、先週の木曜日、三軒茶屋のフランス料理店で目の前に生牡蠣が出てきたときも牡蠣の美味さと腹を壊す危険性とを天秤にかける物凄い計算が脳内で繰り広げられたのですが、牡蠣を食うことに圧倒的に勝利を下す判断が採決されたのでした。

なにがその判断の決定的な要因だったのか。

それは、その日が木曜日だったからなのです。

今日は木曜日だから、牡蠣に当たっても、症状がでるのは少なくとも明日午後以降、平均的には土曜日、すなわち、体調崩しても土日は仕事に影響せず、寝てすごすことができる、そのように判断したわたくしは、自分の分ばかりでなく、他人の分の生牡蠣をも、圧倒的勢いで、ぺろんちょ、ぺろぺろと平らげてしまったのです。

白ワインと生牡蠣の美味さに酔ったわたくしは、ドイツとフランスの国境から始まるひとつの恋物語を語り、IT業界の未来を予測し、宇宙論とスピノザの哲学の類似性を聴衆に披瀝し、「久方の ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花のちるらむ」と百人一首中の和歌を詠じ、それこそ絶好調だったあの木曜の夜は、今から思えば、古き佳き時代であったのだと、いまさらながら思い返すことができるのです。

翌日、金曜の夜、いつもどおり「恋のから騒ぎ」を観て寝たのでしたが、深夜過ぎ、猛烈な吐き気と猛烈な腹痛で眼が覚めました。

この急激な、突き上げるような吐き気は、尋常ではない、ただの風邪ではない、そう思ったわたくしは、パニック寸前で、ともかくお手洗いに飛び込んだのです。

「下痢のほうはいいけれども、吐き気のほうには絶対に屈してはならない。なぜなら、吐いたら、今日の晩に食ったものが、もったいないから」

そのように念じつつトイレとベッドを行ったり来たりし、気がついたら朝で、一旦症状は治まったものの、いつまたぶり返すか分からないので、朝の英会話と午後の知人の約束と夜の美容室を全てキャンセルしてずっと一日ベッドに寝ていたのですが、その判断たるやまったくもって大成功。

下痢はなくなったものの吐き気は続くわ頭は痛いわ体中節々が痛くなるわでそれこそ地獄のような一日を過ごしました。

一日何も食べないわけにも行かないから、とりあえずヴィーダーインゼリーでも買いに行こうとスーパーに行ったときももう、5分歩くだけで超大変でした。

足元おぼつかないし目の前はぐるぐる回るしで、それで青白い顔で徘徊してるんですから、たぶんお巡りさんに見つかったら、職質受けたんじゃないかと思います。

日曜はかなり症状は治まりましたが、やはり体はずっとだるいし頭も働かないわで、ずっと布団の中で寝てすごしましたよ、まったくもう。

今も、ちょっと頭の痛いの残っている感じで、ブログを書く指先が震えてうまくかけない状態です。

しばらくわたくしは、牡蠣は食いません。

でも、食べるのをやめることは、ないでしょう。

だって、美味しいし、ある意味、今回のリスクヘッジは大成功だったともいえるのです。

木曜日に牡蠣を食い、症状が土曜日に出て、日曜日に回復に向かう。

明日、月曜日に仕事に行くのは少し辛いところがあるかもしれませんが、体調は75%程度回復している自信は有りますので、問題ないでしょう。

NASAもびっくり、まったくもってパーフェクトなリスク管理。

そこで、今回の教訓です。

「牡蠣は、木曜日に食うべし」

# by maeyaniku | 2011-01-17 01:21

フィギュアと仏像2

「フィギュアと仏像」というエントリをポストしたらおりしも以下のようなニュースを発見しました。

「萌え寺」に千客万来 アニメ風キャラで注目
「萌え寺に参拝したら精神的に落ち着き、仕事が見つかりました!」…失業中だった40代男性

ブログのエントリの内容と、ニュースの内容とは、コンセプト的には若干異なるところはありますが、しかし、古来の仏像の役割がつまるところは現代におけるフィギュアの役割と変わるところはない、現代のフィギュアは古来の仏像が姿を変えたに過ぎない、というわたしの主張はやはり部分的にも正しいところがあるのではと、強い確信を抱かざるを得ません。

偏見なしに、物事の本質を曇りない眼でみることができる人は、理解できるのではないかと思います。

仏像とフィギュアは、その表面において姿かたちこそ違えど、本質においては、美への憧憬という観点で全く同じものであるということが。

仏像を愛する人にはぜひフィギュアを鑑賞してほしいですし、フィギュアを愛する人には仏像を鑑賞してもらいたいと、そのような願いを抱かざるを得ません。








# by maeyaniku | 2011-01-14 00:58

愛について

俺自身、交友範囲は非常に狭いし、それが普遍の真実だと言うつもりは
一切ないけれども、少なくとも知っている限りの女は、一切の例外なく、
みんな、そろいもそろって、三度の飯よりお金が好きだ。

札束見せ付ければ、あっという間になびくような女ばかりだ。

札束見せ付ければ、あっという間に心許すような女ばかりだ。

札束見せ付ければ、あっという間に・・・おっと、これ以上は危険すぎるかな。

(え?読者の貴女?

知ってる。アンタだけは、そんな女じゃない。

そんなことくらい分かっているから、決して気を悪くしないでくれ。

アンタだけは、ただ一人の心清き例外ってことで、今、話してる。)

さて、この世に男として生まれたものとして、女に愛されるのと、お金に愛されるのと、どちらがいいだろうと、今日、山手線に乗りながら、考えた。

正直なところ、俺は今まで、女に愛されようとしてがんばってきた。

でも、その努力は、ことごとく失敗に終わり、ことごとく報われなかった。

いくらこちらから女に愛してもらおうと願っても、必ずしも女が俺を、愛してくれるとは限らない。

ここで、世紀の発想の転換が、俺の頭にひらめいた。

ちょっと待て、女はみんな、お金が大好きだ。

だから、まず俺は、お金に愛されるようになればいい。

お金に愛され、お金が手元に集まれば、お金を愛する女が俺の手元のお金を愛するだろう。

そしてそのお金をちらつかせれば、女は俺を間接的に愛するだろう。

そのような考えが、天啓のごとく俺の脳髄を直撃したのだった。

そう、俺は今まで、間違っていたのだ。

女に愛されようという考えがおかしい。

だから、俺は、まず、お金に愛されるように、がんばろう。

そうすれば、勝手に女のほうから俺を間接的に愛するようになるのであるから。

そのような思いを抱きながら俺は、山手線を降り、新宿西口の地下道から、客先に向かった。

[参考]
愛について 谷川 俊太郎
恋愛作法 愛についての448の断章 宇野 千代
愛するということ エーリッヒ・フロム
エクスタシー 村上龍

# by maeyaniku | 2011-01-13 01:18

名刺よりコンテンツ

社会人になると、仕事の関係や異業種交流会、各種講習会などで名刺を交換することが多くなってくると思いますが、名刺交換など、あなたにとって何の役にも立ちません。

少なくとも、どのような会社でどのような部署に所属している、と言った情報くらいは分かるので、非常に少ない確率で、運とタイミングが合えば、時として新しい仕事へと発展することはあるかもしれません。

でもそれは、別にあなたの名前が評価されたわけではありません。

あなたの所属する会社や組織が評価されただけで、別にあなたの名刺に記載されている名前は、あなたであろうが別の誰かであろうが、極端な話、名前の欄が空欄だろうと、それは誰でも良かったというのが現実です。

したがって、自身が所属する会社や組織を売り込もうとするとか、人の名刺を集めるのが趣味とか言うのであればともかく、「あなた自身」を誰かに売り込もうとするならば、名刺とういツールは全く役に立たないことは自明です。

というわけで、これから社会人になる人、社会人になって2〜3年目くらいの若い人に対しては以下のようにアドバイスできると思います。

・名刺交換などに明け暮れるくらいなら、まずは、自分のコンテンツを作って人に見せられるようにしておく
・自分がこれまで関わってきたコンテンツを自分の言葉で説明できることを目指す

社会人になって評価されるのは、「あなたは何を出来るのか」で評価されるのは間違いないですが、その基準は、「あなたがどのような能力をもっているのか」ではなく、「あなたは過去にどのような結果を出したか」といった実にわかりやすい基準で評価されます。

「プログラミングができます」といったもやもやした基準ではなく、「こんなアプリケーションをプログラミングしました」といった明確で分かりやすい形が評価されるのです。

それは、名刺そのものや、名刺交換の場からは一切判断できません。

自分は過去どのような仕事をしたか、どのような成果を生みしてきたか、それを明示的に表現できるものがあれば一目瞭然でしょう。

成果物として表現できるものが無ければ、過去の成果について自身で十分に説明できる自分だけの「言葉」を持っておくことも有効でしょう。

インターネット時代に、そのような成果を表現することにさほど高いバードルはありません。

エンジニアなら、アプリを作ってWEBで公開しておけばよいです。
アプリを作ることができなくても、仕事から得た自分自身の「言葉」=「哲学」をブログ等で表現することは容易です。

これらを名刺の変わりにして、新しく出会う人々に提示できればいいのです。

わたくし自身、仕事で身につけた成果を以下のようにまとめていますし、読んだ本について別のブログで感想文を書いたりしています。

前谷肉ポータル
前谷肉書評

これらサイトがきっかけになってちょっとした副業の機会をいただいたり、アフィリエイトで若干の副収入になったすることが実際にあるです。

もはや「会社」や「組織」があなたを守ってくれない時代です。

そのような時、あなた自身が何をできるのか明確に示さないと生き残っていけないでしょうし、「会社」や「組織」ではなく、あなた自身が自分のブランドを持っていることが最大の強みになってくるかと思います。

役に立たない名刺交換に精を出すくらいなら、自分だけのコンテンツを作り、それを表現し、自分というブランドを作り上げることを目指しましょう。

[参考]
キャリアショック ―どうすればアナタは自分でキャリアを切り開けるのか?
ハーバード流 キャリア・チェンジ術
20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義
メランコリア 村上龍

# by maeyaniku | 2011-01-11 00:47

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